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Patina|パティーナとは
COLUMN
Patina哲学 2018.4.3

【Patina哲学】第九回 ガジュマルの木

モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ

時の訪れを知らせる植物

枯れていた木に、いつの間にかピンクの花が咲いている。春の訪れは、いつも周りの植物が教えてくれる。記号としての暦では、知識として春を知っても、感覚では感じられない。色彩で、季節を知る。

植物は、誰に教えられることもなく、花を咲かせる時期を知っている。花を咲かせる役割も知っている。花はどんなかたちをしようが、美しい。生えたところから動こうとせず、まっすぐ素直に生きて、いのちを全うする。

それに比べて、わたしたちは、何かの世界観がどこかにあると信じ、何かのやり方をいつも誰かに聞き、聞いても飽くことなく、また何かを知りたがる。右を見て、左を見て、あっちに行き、こっちに行き、落ちつくことがない。素直に上を見て、まっすぐ生きている人なんて、この世に存在するのだろうかと思ってしまう。

植物は、生まれたところに根をおろしたら、自力では動くことができない。何をされてもなされるがままで、逃げることもできない。そもそも感情がないと言われればそれまでだが、しかし、いのちがある。タネを繋いでいる。

不思議な植物との出会い

昔、中国を1人で南下し、行先も決めずに深センの街を自転車でこぎまわっているとき、変な木に出会ったことがある。

街で見かける木は根と幹と枝と葉がきちんと分別できる形できれいに役割分担している。イメージの中の木、そのものだ。しかし、そこで出会った木は、枝が下に向けて根を張り、コンクリートをぶち破って、根がむき出しになっているような木だった。見た目は美しくなかった。お爺さんのような木だった。

あとで知ったが、それはガジュマルの木だった。日本では屋久島や沖縄など南に分布する木らしい。中国では南方地方に自生しており、榕樹という名前で親しまれている。

その木に出会ったとき、そこで足が止まった。そのとき、無職で次にやることを決めずに、中国大陸を自由にふらふらしていたわたしは、その木がとても苦しそうに見えた。しかし、過剰に根を張る姿が、根を持たないわたしに、「根」について、問い掛けているようにも見えた。

わたしは何処へでも行ける。中国でも、日本でも、どこか知らない世界へ。しかし、このガジュマルの木は何処へも行けない。剥き出しになった根が、それを物語っている。むしろ、強固に張られた根が、動くまいという強い意思表示をしているかのようだった。

動けることは、自由そのものだ。どこかにつながれて、どこにも行けないという現実があるなら、それは不自由だ。しかし、このガジュマルの木の根の張り方は、それを凌駕していた。動けないことは不自由という事実であると思い込んでいる考えを。

根を張ることの価値とPatina(パティーナ)

経年変化は、時間経過の味わいだから、対象物は移動しない。同じ場所にじっとして根を張り、降り積もる時間を重ねてゆく。Patina(パティーナ)はそれが保有する時間を価値とみなす。Patina(パティーナ)と、移動することは、相容れない。様々な場所のいろんなものを自分の手元に集めることは、少し昔までは夢のような話で、特別な人間だけができることだった。しかしそんなことはもはや当たり前に生活を支えるようになった現代では、動かずに自生しているものが、外からもってこられたものによって侵食され、破壊されているから、護られる対象だ。それぐらい、根を張るということは、植物であれ、ものであれ、人であれ、希少価値が高くなった。

人も移動する。なるべく経済が発展しているところへ。いつの間にか、英語が日本語を侵食して、重要性が増していると喧伝されている。

ガジュマルの木に出会ったとき、その木にわたし自身の根を問われた気がした。わたしは答えられる根をもっていなかった。人にとっての根とは何か。日本人であるということのルーツだったりアイデンティティだったりするのだろうか。しかし、それを具体的に現す根は存在しないし、仮にあったとしても、日本のどこに根を下ろせば良いのだろう。

それを示すと思われる表現方法は増えているのに、それが根であると分かるものはどこにもない。

いつの日か、根を失ったから、ひとはまっすぐ素直に生きられなくなったのかもしれない。植物がもっているような、素直さ、謙虚さ、忍耐強さ、自立と共生を持てなくなっているような気がする。

それは時間と場所に閉じ込められているものだ。自分ではすでに持たなくなってしまったものだから、それに触れたとき、懐かしさを感じたり、味わいを感じたり、自分が持たぬ根を間接的に感じ、勇気や感動をもらったりするのかもしれない。

根をはる植物は強い。雨風を受けても、大気汚染の中でも、下を向くことなく、上に伸びようとする。Patina(パティーナ)が堆積している価値は、時間軸の中で、様々な抵抗と風化に耐えたものに残る気品のようなものなのかもしれない。それはいつも人々に生きる勇気を与え続けているものなのだ。

Patina哲学第九回版画タイトル:天道虫

Patina哲学第九回版画タイトル:天道虫

編集部まっちゃん

広島県出身。すでに3人に1人が高齢者という当時先進的な島根県の大学で4年過ごし、中国研究に没頭。就職活動してみたが、まったく手応えなく、そのままニートになりそうだったので、中国(上海)に留学。上海が気に入ってそのまま中国で合計4年間暮らす。26歳ぐらいのとき、このままだと日本人であることを忘れそうだったので思い切って帰国して10日後上京。なぜか飲食店でずっとおせち料理をネットで販売し続ける。激務でECのエキスパートになってはみたものの、人生に疲れて、仏教に出会い、インドへ行き、今度はスリランカを目指しています。